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姉川の合戦    元亀元年(西暦1570)6月28日 

彦根城姉川は琵琶湖に注ぎこむ最大の川であります。この川を挟んで南側に織田信長勢・徳川家康勢の連合軍2万9千、北側に浅井長政勢・朝倉義景勢の連合軍1万8千が対峙した。
この戦いにて、織田信長勢は圧勝し、戦死者の血で川は赤く染まったと言い伝えられております。朝倉義景勢を滅ぼしたあと、1573年(天正元年)信長は浅井長政の小谷城を攻め浅井長政を自害に追い込み浅井家は滅亡した。

 

浅井長政勢・朝倉義景勢の連合軍は近江武士団であり、言い伝えによりますと、数の勝っていた織田信長勢・徳川家康勢に比べてかなり強い戦闘力があったそうであります。

賎ヶ岳の合戦    天正11年(西暦1583)4月11日

米原の北国街道・中山道分岐碑天正10年(1582)6月、織田信長が殺された本能寺の変の後で、かねてよりライバル関係にあった柴田勝家と羽柴秀吉の対立が激しくなりましました。翌11年(1583)3月、柴田勝家および佐久間盛政・安政、柴田勝安、前田利家、不破勝光、原政茂、金森長近、徳山秀現が北ノ庄を進発しました。勝家軍総勢2万8,000人に対して、秀吉軍は、かねてより勝家軍を阻止すべく羽柴秀長・堀秀政等の軍総勢2万5,000人を余呉湖周辺に配置していました。
両軍睨み合いのまま日が過ぎていきました。
4月21日、秀吉は佐久間盛政軍の退き際を討つべく総攻撃を命じ、2万の軍勢を率い追撃戦に移りました。さらに、盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家・利長父子が兵をまとめて戦場離脱を始め、次いで金森長近、不破勝光も戦場から遁走を始めました。これを機に勝家軍は総崩れの状態となりました。
勝家本隊も兵が減少し、秀吉軍と決戦を挑むことができない状態になりました。秀吉側近の武将「賎ヶ岳七本槍」の勇猛さや前田利家の無断撤退が響きました。家臣の毛受勝照が、身代わりとして奮戦している間に勝家は栃ノ木峠を越えて北ノ庄へと落ち延びました。 勝家は自害しこのとき一緒に自害したのが勝家と再婚したお市の方でした。

この戦いにて羽柴秀吉の側近として奮戦した福島正則や加藤清正ら7人の武将は、後に伝えられる「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれております。七本槍の武士像が立つ賤ケ岳山頂からは、余呉湖、竹生島など奥琵琶湖周辺が一望できます。

 

 

 

 

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